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最高裁判所第一小法廷 昭和57年(あ)893号 決定 1984年4月12日

主文

本件上告を棄却する。

理由

被告人本人の上告趣意は、事実誤認、単なる法令違反の主張であり、弁護人笠井治、同小野正典、同内藤隆の上告趣意のうち、判例違反をいう点は、所論引用の判例は、所論のような趣旨を判示しているものではないから、前提を欠き、その余は、違憲をいう点を含め、実質はすべて事実誤認、単なる法令違反、量刑不当の主張であって、いずれも刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。

なお、所論にかんがみ、職権をもって、次のとおり判断する。

一  原判決の是認する第一審判決判示第一の三の被告人らの行為が刑法一一〇条一項の罪にあたるとした原判断は正当である。

二  同法一二四条一項の規定にいう陸路の壅塞とは、陸上の通路に障害物を設け、該通路による往来の不能または危険を生じさせることをいい(最高裁昭和三〇年(あ)第一五八三号同三二年九月一八日第二小法廷決定・裁判集刑事一二〇号四五七頁参照)、設けられた障害物が通路を部分的に遮断するにすぎない場合であっても、該通路の効用を阻害して往来の危険を生じさせるものであるときは、陸路を壅塞したことにあたると解するのが相当である。ところで、原判決及びその是認する第一審判決の認定したところによれば、被告人らは、幅員約五・九メートルの県道上の側端から中央部分にかけて車体の長さ約四・二六メートルの本件普通乗用自動車をやや斜め横向きに置き、車両の内外にガソリンを振りまいたうえ、点火した火炎びんを投げ込んで右車両を炎上させ、これにより右車両の燃料に引火して爆発する虞を生じさせたというのであるから、たとえ、障害物として置かれた右自動車が県道の幅員を部分的に遮断したにすぎず、道路の片側に遮断されていない部分が約二メートル余り残されたとしても、右道路の効用を阻害して往来の危険を生じさせたものというべきであり、右の行為は、同条項に規定する陸路を壅塞して往来を妨害したものにあたるというべきである。

よって、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、主文のとおり決定する。

この決定は、裁判官谷口正孝の弁護人の上告趣意第二点の二についての意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

裁判官谷口正孝の意見は次のとおりである。

弁護人の上告趣意第二点の二について

一 刑法一一〇条一項の罪の成立について必要とされる故意の内容について、大審院判例は、同条項の犯罪は「公共ノ危険ヲ生セシメタルコトヲ以テ該犯罪構成ノ要件トナセトモ火ヲ放チ同条所定ノ物ヲ焼燬スル認識アレハ足リ公共ノ危険ヲ生セシムル認識アルコトヲ要スルモノニ非サルコト同条ノ解釈上明白ナリ」と解している(大審院昭和六年七月二日判決・刑集一〇巻七号三〇三頁)。そして、下級審裁判例も今迄のところ概ねこの解釈に做っている。

ところで、大審院判例は右の解釈を導くについて、「同条ノ解釈上明白ナリ」というのみで、その理由について語るところがない。

思うに、大審院判例が右の解釈に出た所以のものは、同罪の条文の構成が「焼燬シ因テ公共ノ危険ヲ生セシメタル者」となっていて、公共の危険の発生を行為から生じた結果の発生という体裁をとっており、いわゆる結果的加重犯類似の形式をとっていることに由来するものと思われる。そして、結果的加重犯における結果の発生については故意の成立を不要とするのがわが国の判例の確定した解釈であるからである。

二 然し、私は、右の大審院判例の解釈にはとうてい賛成することができない。先ず、刑法一一〇条一項の罪を結果的加重犯類似のものと解することがそもそも問題である。結果的加重犯は犯罪とされる基本的行為から重い結果が発生した場合に特にこれを加重類型として重く処罰するいわば結果責任主義的犯罪類型である。その場合、基本的行為そのものが犯罪とされているのは勿論として、基本的行為はその性質上重い結果発生の危険性を備えていることが一般であり、基本的罪とその結果生じた罪とは同一罪質の罪であることが通常である。傷害致死罪について例をとればこの関係は明らかである。

然るに、右一一〇条一項の罪については右の関係は成り立たない。基本的行為についての犯罪の成立が刑法第九章のいわゆる公共危険罪として法定されていないばかりか、よしそれが火力による毀棄罪等の犯罪を構成するにせよ、それは個人的法益に対する罪であって、右一一〇条一項の罪とは罪質を異にする。

次に、「放火罪ハ素ト公共ノ危険ニ対スル犯罪ナルヲ以テ刑法第百八条及第百九条第一項ニ規定セル放火罪ニ在テハ其行為中ニ当然公共ニ対スル危険ノ観念ヲ包含スルモノトシテ特ニ公共ノ危険ヲ生セシメタル事実ヲ以テ犯罪構成ノ要件ト為サスト雖モ同法第百十条ノ放火罪ニ至テハ其行為自体ニハ叙上ノ観念ヲ含蓄セサルカ故ニ其行為ニ因リテ公共ノ危険ヲ生セシメタル場合ニ於テ始メテ犯罪ヲ構成スルモノトス」(大審院明治四四年四月二四日判決・刑録一七輯九巻六五七頁)と説明されているように、一一〇条一項の罪の基本的行為はもともと放火罪の保護法益である公共の危険に対する侵害としてとらえられていない行為である。従って、その行為を公共の危険に対する犯罪としての放火罪たらしめる契機は、まさに当該行為によって具体的に公共の危険を生ぜしめたところにある。その意味において同条項にいう「公共ノ危険ヲ生セシメ」たことは、同条項所定の行為をして放火罪たらしめるための犯罪の成立要件となっているわけである。その要件の備わることによって初めてある行為が犯罪となる場合、その要件の存在することを認識することが故意の内容となることは、責任主義の原則上むしろ当然のことであろう。

そして、もし右一一〇条一項の罪の成立について「公共ノ危険ヲ生セシメル」ことを故意の内容でないとすれば、同条項所定の客体に対し放火したが公共の危険を生ぜしめなかった場合は、たとえ不処罰であるにせよ同条項の罪の未遂として観念せざるを得まい。然し、その成立が肯定されたとしても個人的法益に対する侵害罪から飛躍させ公共危険罪とすることはとうてい承認し難いところである。

かような次第で私は、刑法一一〇条一項の罪の成立には公共の危険の発生の認識を必要とするものと考える。

なお、この危険の発生の認識の具体的内容をどのように規定するかについては、延焼物件に対する放火の故意との関係において困難な問題はあるが、危険の予見と延焼の予見とが論理上区別できることは否定し難いところであり、その具体的内容としては、「公共の危険発生の予見はあるが、延焼を予見することのない心理状態」すなわち、放火行為により「一般人をして延焼の危惧感を与えることの認識」と考えてよいと思う(中教授・刑法講座五巻一二五頁以下参照)。

三 本件の場合、原判決が認定した被告人らの放火の手段・方法、行為当時の客観的附随事情に照らして考えると、被告人らはその放火行為により同法一〇八条、一〇九条所定の客体に対する延焼までは予見しなかったとしても、付近住民に延焼の危惧感を与えることの認識が存したことは優にこれを肯認できるところというべきであるから、結局所論は理由がないものといわなければならない。

(裁判長裁判官 角田禮次郎 裁判官 藤崎萬里 裁判官 谷口正孝 裁判官 和田誠一 裁判官 矢口洪一)

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